音楽教室の未来は?(その591)

**『 あるがままに 』**

 

みな様こんにちは。


『発表会写真撮影・ステージ写真撮影』のピアノアーテック312 

代表の都丸です。



 本日は11月3日付 朝日新聞朝刊から『折々のことば』からです。


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祓いのけることはしないで


穢れたままで救うということ


これを私は愛と言い 慈悲と言うのです


                        鈴木 大拙



救われんとすればこの条件を満たす必要がある、

と言うのではなく、そんままでいいと、傷や汚れやあがきごと抱擁すること。


それが「慈悲」だと仏教学者は言う。

他の人に向かい、何の条件も付すことなく、

ただ「いるだけでいい」と言えるかどうか。


宗教の信は一にそこに懸かっている。


安藤礼二編「折口信夫対話集」から。


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以前にも記したとは思いますが、私は特別な信仰心はありません。

極端なことを言えば初詣やお祓いの類は全く信用しないというか、無関心。

なのでもう「神頼み」の類は一切したことがありません。

それは神や仏を信じていないとも言えるのですが、だからと言って宗教そのものを否定しているのではありません。信仰心を持つ人をある意味で尊敬しています。


ただ、屁理屈に取られてしまいがちですが、信仰の大元は「自分だけが」ということは決してなく、相手を許すことから始まりますね。

それはごく普通に生活している中で「気遣い」「思いやり」の気持ちを大切にすることに他ならないと私は思っているのです。



無心に祈る姿はとても美しいと思います。

その気持ちは必ず通じると言われています。

あるテレビ番組の実験で、一人の女性がローマカトリックのとある教会を訪ねました。

もちろん、彼女は現地の言葉は一切分かりません。

それでも3人の神父が彼女のために祈りを捧げると、突然、彼女が大粒の涙を流すのです。それは悲しい涙ではなく、嬉しい涙でもない。


後になって彼女は「何でだか分からないのですが、身体が暖かくなって涙が溢れました」と言いました。


もちろん、現地の雰囲気や神父の言葉がある意味では心地良いリズムになったのかもしれませんが、いずれにしろ「祈り」は通じ、彼女もそれを受け取れたと言えます。


信仰心はあるに越したことはないのかもしれませんが、意識して持つ必要もなく、素直な気持ちで受け入れることができれば、それで良いのではないかなとも思います。


しかし、これがなかなか難しい。

「相手を許す」「素直になる」ということは本当に難しいものです。


でも、だからそれができた時に真の「慈悲」があるのだとも言えますね。


信仰心のない私が、こんなことを語る資格はありません。

でも、その気持ちは常に持ち続けていたい。そう思っていることは事実です。